先史時代(旧石器時代~奈良時代)
南西諸島は1000万年前に大陸から切り離され、100万年前ごろまでに現在の島々に分断された。旧石器時代(3万年前–1万3000年前)の遺跡にアマングスク遺跡(伊仙町木之香)、ガラ竿遺跡(同小島)、縄文時代(1万3000年前–3000年前)の遺跡に面縄貝塚(伊仙町面縄)、下原洞穴遺跡(天城町西阿木名)、塔原遺跡(同兼久)、本川貝塚(徳之島町南原)などがある。琉球史では、土器が出現した1万年前–1000年前(縄文時代~平安時代)を貝塚時代といい、奄美では先史時代(文字のない時代=旧石器時代・貝塚時代)を「奄美世」という。
平安初期(797)に成立した史書『続日本紀』に、文武三年(699)「多褹(種子島)夜久(屋久島)菴美(奄美大島)度感等の人、朝宰(地方官)に従いて来りて方物(特産物)を貢す。度感嶋の中國に通ずるはここにおいて始まれり」、霊亀元年(715)「陸奥出羽蝦夷並びに南嶋奄美夜久度感信覚(石垣島)球美(久米島)等来朝し各方物を貢す」とあり、度感(読み未詳)が徳之島のことであれば、飛鳥時代末期から奈良時代初頭にヤマト政権(大和朝廷)への朝貢を始めたことになる。
貝塚時代のあと島内各地に按司と呼ばれる有力な豪族(村長)が割拠し、グスク(城)が築かれた。恩納城跡(伊仙町面縄)、大和城跡(天城町天城)など、城館跡、按司屋敷跡とされるものが13カ所、アジ墓と伝えられる掟大八の墓(徳之島町手々)がある。
また11世紀から14世紀前半にかけて高麗(朝鮮の王朝、936-1392)から来た陶工たちによって陶器が大量生産され、琉球列島から九州南部まで広く流通した。1983年(昭和58年)阿三の亀焼(カムィヤキ)で発見されたカムィヤキ陶器窯跡(カムィヤキ古窯跡)は、伊仙町の阿三、伊仙、検福にまたがる東西1.5㎞、南北0.8㎞の地域に12支群が分布し、窯の数は100基を超えていたとされている。
ただ、中世(平安時代・鎌倉時代)に関しては史料がほぼ存在しない(続日本紀のあと千竈時家譲状(1306)まで500年間、徳之島はいっさい文献に登場しない)ため詳細は不明で、沖縄史ではグスク時代、奄美史では「按司世」と呼ぶが、ほかにもカムィヤキ時代など、時代の名称もまだ確定していない。
琉球国時代(室町時代・安土桃山時代)
のち琉球王国(沖縄)が奄美群島を支配した。奄美が琉球に統治されていた時代を、奄美史では「那覇世」とも呼ぶ。徳之島が琉球の統治下に入った時期は不明ながら、三山時代(北山・中山・南山、14世紀)のあとの中山の尚巴志による沖縄島統一、すなわち琉球王国誕生(1429)と、大島服属(1440年頃)の間の1430年代とされている。
琉球の行政区画は間切といい、徳之島は3間切。琉球辞令書により首里王府(那覇)から任命された首里大屋子(のち大親)、大屋子などの役人が行政を担当した。
祭政一致の琉球王国では、最高位の女性神官である聞得大君(国王の姉妹や王妃)が王と並ぶ権威をもっており、首里王府から発給される辞令書により任命される神女職(公職)ノロ(祝女、野呂久目など)がシマの祭祀を司り、役人とともに統治した。
薩摩藩時代(江戸時代)
慶長14年3月4日(1609年4月8日)島津軍3千人が山川湊(指宿市山川)を出航。ほぼ戦わずして4月5日(5月8日)首里城を接収、琉球王国を制服した。琉球侵攻の途中、徳之島(慶長14年3月17日-24日(1609年4月21日-28日))でのみ、湾屋と秋徳(亀徳)で戦闘があったと伝わるが、仮に事実としても先発隊にすぐに鎮圧された模様。
薩摩藩は元和9年(1623)、奄美支配のための34条の法令、大嶋置目(大島置目条々)を布達し統治体制を強化していくが、表面上は琉球王国を存続させ、道之島(奄美群島)も琉球国領のまま直轄支配した。薩摩藩統治時代を奄美では「大和世」と呼ぶ。
行政区画は、琉球国時代と同じ3間切に、6噯(45村)を設けた。東間切が、亀津噯と井之川噯。西目間切が、岡前噯と兼久噯。面縄間切が、伊仙噯と喜念噯。
6カ所の噯役場に、与人、惣横目などの島役(島役人)がおり、代官(1人)、附役(2–3人)、横目(2人)などの詰役(薩摩藩の役人、任期2–3年)がいる代官所(役所)、仮屋(官舎)は亀津村にあった。
間切役人(島役人)の最高位である与人は、江戸中期までは中世の按司、琉球国時代の大親役などの家から代々任命され、江戸後期には薩摩藩の役人と島妻との間に生まれた子らも任命された。
与人が藩主の慶事に際し鹿児島に赴くことを上国といい、ほぼ3年に1度、多くの献上物を船に積んで上国した。鶴丸城(鹿児島城)で藩主に謁見し、郷士格、名字(一字姓)を与えられた。徳之島では、幕末までに38家が「士族格」を付与されている。
江戸時代初期は新田開発も行われていたが、江戸中期頃から黍作(サトウキビ栽培)が始まり、サトウキビ栽培を管理する島役人、黍横目が噯ごとに設置され(1735)、年貢の米を黒糖に換算して納める換糖上納制(1760)の開始などによりサトウキビ栽培が拡大した。
江戸後期には数回の天然痘の流行や大飢饉(1755)、熱病の流行(1773)などにより大島へ逃亡した者も多かった。宗門手札改(戸籍調査)によると22,392人(1753)から12,734人(1785)まで減少。ただ幕末には23,447人(1852)まで回復している。
江戸期、徳之島の流罪人(遠島人)は200人弱(西郷隆盛の徳之島在留は1862年)。
江戸後期(1830)の惣買入制(藩による黒糖専売制)以降、薩摩藩による苛酷な収奪がおこなわれた。幕末の黒糖地獄である。ただ、それ以前から大地主・島役人の債務奴隷となった家人(下人)が多数存在し、明治4年(1871)明治政府がいわゆる解放令を出したあとも(昭和まで)この島民による島民支配は存続した。
また、琉球国時代から存続したノロやユタ(霊媒師、呪術師)が各シマ(集落)に多くの神域を指定したため、農地開発も遅れた。藩は、「人心を支配し愚民を惑わす」ユタに対し巫女禁止令(1856)を出して20人を逮捕するなどしたが、根絶はできなかった。
百姓一揆に、母間村の数百人が亀津村の代官所に押しかけた母間騒動(1816)と、犬田布村の百数十人が役人に抵抗した犬田布騒動(1864)がある。ともに首謀者は他島への流刑となり、騒ぎに加わった村人もさほど重い処罰は受けていない。
薩摩藩時代の史料として、代官記に代わる「前録帳」(徳之島面縄院家蔵前録帳)、島役人琉仲為の公務日誌「仲為日記」、上国与人らが記録として残した「上国日記」などがある。
近代(明治時代~昭和の敗戦)
明治4年(1871)廃藩置県により鹿児島県に編入。明治12年(1879)大隅国大島郡発足。このころ全島民が名字をもつ。明治13年の地租改正のとき、江戸期45村のうち平山村、九年母村、三京村の3村が廃村。明治20年(1887)、大島郡内の(漢字表記が)同じ村名の片方が改称させられ、徳之島では、秋徳が亀徳、和瀬が徳和瀬、久志が下久志、阿木名が西阿木名、浅間が阿三に村名変更。
明治41年(1908)島嶼町村制により亀津村、島尻村、天城村の3村、42字となった。
大正5年(1916)天城村から東天城村が分立。当時の人口は、亀津村12,911人、東天城村10,090人、天城村12,739人、島尻村17,800人、計53,540人(大正9年)。
大正10年(1921)島尻村が伊仙村に改称。大正15年(1926)島庁が支庁、島司が支庁長と改称された。
昭和17年(1942)1月1日(太平洋戦争開戦直後)から亀津村が亀津町になった。昭和18年(1943)10月からの天城村の浅間陸軍飛行場建設工事に多くの島民が動員され、昭和19年(1944)6月に完成すると約7千名の奄美守備隊が配置された。同年(1944)10月10日(十・十空襲)と翌年の数カ月、徳之島も度々空襲を受けた。
米軍時代(戦後)
敗戦後の昭和21年(1946)2月2日、北緯30度以南(トカラ列島以南)の「北琉球」が米軍政府の統治下(軍政下)に置かれた(二・二宣言)。「アメリカ世」という。
大島を中心とする復帰運動もあり、サンフランシスコ平和条約(1951年9月)に基づく北緯29度以北(トカラ列島)の返還(昭和27年(1952)4月)に続き昭和28年(1953)12月25日、北緯27度以北(奄美群島)も日本復帰を果たし鹿児島県大島支庁が復活。
※このとき奄美に切り捨てられた沖縄の本土復帰(沖縄返還)は昭和47年(1972)5月15日。
現代(~現在)
昭和33年(1958)4月1日、亀津町と東天城村が合併して徳之島町が発足。
昭和36年(1961)1月1日、天城村が町制施行、昭和37年(1962)1月1日、伊仙村が町制施行し、現在の島内3町が成立。昭和37年(1962)、徳之島空港が開港。
「平成の大合併」の際、「とくのしま町」への3町合併協議(2002-05)は住民投票で徳之島町が反対多数となり決裂。平成23年(2011)、「米軍基地徳之島移転断固反対全島決起大会」を開催し、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設に反対した。
令和3年(2021)「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」が、世界自然遺産に登録された。徳之島の登録地(島全体の1割)は、天城岳、井之川岳・剥岳・犬田布岳の2区域。登録理由である「生物多様性」が島の成り立ちによることは当然ながら、森への人間の侵入を妨げた島内数万匹の毒蛇ハブの存在も大きい。