徳之島の基礎知識

地理

九州と台湾の間に浮かぶ鹿児島県と沖縄県の島々を「南西諸島」、そのうち鹿児島県に属する島々を「薩南諸島」という。その奄美大島以南が「奄美群島」で、奄美大島、加計呂麻島(かけろまじま)、請島(うけじま)、与路島(よろじま)、喜界島、徳之島、沖永良部島(おきのえらぶじま)、与論島の有人島8島からなる。

徳之島は鹿児島市から約500キロの洋上にあり、南北約26キロ、全周約80キロ。人口は徳之島町10,192人、天城町5,950人、伊仙町6,632人で、3町合計で22,774人(2019年4月1日現在)。

歴史

平安初期(797)に成立した『続日本紀』(しょくにほんぎ)に、699年に「多褹(たね=種子島)、掖玖(やく=屋久島)、菴美(あまみ=奄美大島)、度感の人が貢す」とある。「度感」は読み未詳だが徳之島とする説が有力。とすれば徳之島は、飛鳥時代にすでに大和に朝貢していたことになる。その後の、各地の豪族が支配した「按司世」(あじんゆ)と呼ばれる時代を含め、中央に組み込まれてはいたものの独自性を保っていたとみられる時代を、「奄美世」(あまんゆ)と呼ぶ。

のち徳之島を含む奄美群島は琉球に征服される。この中世の琉球支配時代を「那覇世」(なはんゆ)と呼ぶ。服属の開始時期は、1263年から1429年(琉球王国成立)まで諸説ある。

1609年、薩摩藩が奄美群島と琉球に侵攻し、奄美群島を直轄領とした。この江戸期の薩摩支配時代を「大和世」(やまとんゆ)と呼ぶ。

1871年(明治4)の廃藩置県を経て明治以後は鹿児島県大島郡に属し、1908年(明治41)島嶼(とうしょ)町村制により亀津村、天城村、島尻村(のち伊仙村)が発足。

太平洋戦争敗戦後は米軍の占領下に置かれ、1946年(昭和21)2月2日に日本から分離された。その後8年間の米軍施政下時代を「アメリカ世」(ゆ)と呼ぶ。日本復帰運動が実を結んで日本に返還されたのは、1953年(昭和28)12月25日であった。 

1958年(昭和33)徳之島町が発足し、1961年(昭和36年)天城町、1962年(昭和37年)伊仙町が成立した。

徳之島と西郷隆盛

●「遠島」(えんとう)の藩命を下された西郷隆盛の護送船が徳之島の北西部、湾屋(わんや、天城町)に到着したのは、文久2年7月5日(1862年7月31日)である。

遡ること半年。奄美大島に流されていた西郷は島津久光の上洛準備のために鹿児島に召喚され、島妻のアリカナ(愛加那)に新築の家と田を与えて1月14日(2月12日)、3年を過ごした奄美大島を離れた。しかし上京の途上、自らの判断で動いた西郷に狭量な久光が激怒。西郷は捕縛され、4月11日(5月9日)大坂から鹿児島に護送された。島からの帰還から、わずか2カ月後のことであった。

●島津斉彬(なりあきら)子飼いの西郷に反感を抱く久光側近の讒言(ざんげん)と大久保利通の謀略によるものであったが、西郷は「またまたしくじって徳之島へ遠島となり、我ながらあきれている」(島役人への書簡)と、非難も言い訳もしていない。大久保には西郷の才覚と人柄を利用して保身に走る癖があり、西郷には生涯を通して、詰めが甘いという癖があった。

西郷の護送船は薩摩半島の南端、山川港(指宿市)で待命ののち6月14日(7月10日)に出帆。屋久島、奄美大島西端の西古見(にしこみ=瀬戸内町)を経て7月5日(7月31日)に徳之島に上陸した。西郷は1週間ほど湾屋の民家に泊まったあと、後々まで家族で西郷に親切を尽くした島役人、琉仲為(りゅう・なかため)の世話で、港近くの岡前(おかぜん、天城町)の民家に移った。

8月26日(9月19日)、移送の近いことを知った西郷に呼ばれ、2歳の菊次郎と7月2日(7月28日)に生まれたばかりの娘の菊草(きくそう)を連れて愛加那が奄美大島から渡って来て、1週間ほど(諸説あり)を共に過ごす。そこに藩からの沖永良部島遠島命令が届き、西郷は島東部の井之川(徳之島町)に移された。ここでも島役人の禎用喜(てい・ようき)が親身に世話をした。

舟牢に入れられて西郷が沖永良部島へ向け出帆したのは、文久2年閏(うるう)8月14日(1862年10月7日)である。時はいまだ薩摩藩の圧政下。このわずか数年後に幕府が倒れ明治維新を迎えること、そしてその中核に西郷がいることを、このときまだ誰も知らない。

西郷が徳之島にいたのはわずか2カ月余にすぎない。しかし「未決囚」というそのいかにも中途半端な処遇により、多くの書簡をやり取りし島役人や島人らと心を通わせた徳之島での日々は、奄美大島での「潜居」(せんきょ)の3年間、沖永良部島での「囚人」としての1年半とともに、西郷の生涯にとって大きな意味を持つものとなったのである。